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ポルノグラフィティ「夕陽と星空と僕」は2番サビからCメロの流れがヤバいという話

半年に1回くらい、不意にポルノグラフィティの「夕陽と星空と僕」を聴きたくなる時がある。
そして今日まさにそのタイミングが来て、実際聴いてウッ…と涙腺を刺激されている。とかく私の涙腺は昭仁氏の声に弱い。特に絞り出すようなハイトーンボイス。ありゃ駄目だ(達観)

夕陽と星空と僕

夕陽と星空と僕



愛が呼ぶほうへ」のカップリング曲だけど、ファンの中でもかなり人気は高いらしい。わかる~~~
ポルノはカップリングに良曲が多い。「月飼い」(シングル「メリッサ」収録)とか「蝙蝠」(シングル「渦」収録)とか良さの極みなんだけど割愛します。
歌詞はこちらから → 夕陽と星空と僕 ポルノグラフィティ - 歌詞タイム

1番Aメロ

曲は夕暮れの歩道橋を舞台に始まります。時間が経つにつれだんだん長くなる<僕>の影。夕陽はビルの向こう側に落ちていく。Aメロのたった4行で既に時間の流れができている。

1番Bメロ

そして出てくる「サヨナラ。」というフレーズ。やめろ!!私にサヨナラというワードを聞かせるともれなく爆発四散してしまうからやめろ!!!
(※ニンジャスレイヤーではなくポケモンBWの影響です)(作中に出てくる男ヒロインNさんが物語のクライマックスで主人公に「サヨナラ」と告げて目の前からいなくなってしまうシーンがある)(BWをプレイしてからもう7年以上経つけど未だにサヨナラというワードに過剰反応してしまうのはこのせい)

「サヨナラ。」とカギカッコで示されているのでこれは<君>のセリフなんでしょう。
そして1番終了です。え?サビないの?
私もう何十回とこの曲聴いてるけどその度に毎回「あっサビないんですか…」ってなってしまう。
サビが入るべき部分はオケに置き換わってしまいなんだか物足りない気分に。
でもこれこそが昭仁の策略なんだよな…

2番Aメロ

「夜空」「かすかに光る星達」とあるように、1番からだいぶ時間が経ってすっかり夜になりました。

おそらく<僕>は歩道橋の上から1歩も動いていないだろうと思われる。
何時間もその場から動かずにじっとしてる男がいたら間違いなく不審者だと思われるでしょうが、ここは歩道橋の上です。
歩行者にとって、歩道橋は道路の向こう側へ移動するための通過点であって、ずっとそこに留まる人なんて普通はいないし、<僕>の姿を見てもきっと一瞥するだけで通り過ぎてしまうでしょう。
道路を走る車からしたら、歩道橋なんて一瞬で通り過ぎるから意識を向けるわけもない。

歩道橋とはそういう場所なのです。
<僕>は何時間もそこに佇んで、多くの人や車の行き来がある場所なのに誰からも気に留められず、思う存分物思いに耽ることができる。

2番Bメロ

<僕>と<君>はすれ違いによって別れてしまったことが提示されます。
「過ぎた時間は帰らないと知っている」にも関わらず、<僕>は「けれど」と言葉を続けてしまう。

2番サビ

そしてこのサビです。さあきたサビですよ!!!満を持して!!!!サビが!!!!!
サイッコーーーーーーーーにエモいサビだよこれは……

君の形 僕の形 重ねてはみ出したものを
わかり合う事をきっと愛とか恋と呼ぶはずなのに

二人の形を重ねてはみ出したもの、つまり互いの価値観の違い、生まれ育った環境の違い、宗教の違い、性的嗜好の違い、きのこたけのこ派の違い、目玉焼きにかけるのは醤油かソースかの違い(私はソース派です)(きいてない)、そういった大きな違いから小さな違いまで。

二人の違いを埋めることなんて絶対にできないし、形がぴったりと完璧に重なることは永遠にない。
でもその違い、「はみ出したもの」をわかり合い、わからないことをわかり合うということ。

ポルノグラフィティ(というか晴一氏)は「愛してる」という一言をそれこそ幾重にも比喩をふりかけて表現するグループですが、昭仁氏は愛とか恋をこう表現するわけですね。はあ~~~せつねえ~~~~究極すぎる~~~~

太陽と月って形は円形で似てるけど、実際の大きさはまるで違うし重なるわけがない。
「夕陽」が<僕>の比喩であるなら「月」は<君>を表しているはずなんだけど、この曲では「月」というフレーズは登場せず、「星」がかすかに光るだけ。
つまり「月」=<君>は空に浮かび上がることなく僕の観測範囲から消えてしまった、ということ。
重ねてみることさえできない。つらい。

「愛とか恋と呼ぶはずなのに」とあるように、<僕>と<君>はその「愛とか恋」を成就させることができなかった。
わかり合うことができなかったから別れたのか。それとも、わかり合うことができたのに、いつしかすれ違いが起こって、別れざるを得なかったのか。
どちらかは分かりませんが、<僕>の心に満ちているのはたとえようのない後悔ばかりです。


そしてね~~~~この満を持して登場したサビのね~~~~~昭仁氏の歌い方がヤバい。
どこがヤバいかっていうと全編ヤバいんだけど特に「僕の形」ってとこの「ぼくぅぅぅぅ↑↑↑~~のぉぉぉかたぁぁぁちぃぃ~~」と「わかり合う事を」の「わかぁぁぁりぃあぁぁぁうぅぅこと↑↑↑ぉぉぉをぉぉぉぉう」の荒削りなファルセット(裏声)がヤバい。

わかり合う事を~のとこなんかもう声割れてるし。必死か。いや必死なんだよな。わかるよ。
喉の奥から魂ごと絞り出すような掠れたファルセット。切実すぎてここの部分聴くたびに私のメンタルが死にそうになる。

昭仁氏の喉が限界。でもこの曲作ったの自分(作詞作曲昭仁)だからちゃんと責任もって歌おうね…

そして卑怯なのはここからだ。
なんせこの揺さぶられる感情のままシームレスにCメロへと移行する。ヤバい。これ以上があるのかと戦慄する。

エモーショナルなサビを引き継いで畳み掛けるようにCメロへ。後ろで鳴ってるオケも泣かせる気満々である。もうオーバーキルにも程があるだろ勘弁してくれ。

Cメロ

君の前では流せなかった涙が今ごろ頬をつたう
風もない静かな夜だからそのまま涙は足元に落ちた

かあ~~~~~っっっ!!!Cメロ職人の真骨頂かよ~~~~~~!?!?!?!?!?!?!

映像がまざまざと脳内再生される。星明かりだけの静かな夜、<僕>の目元から下だけがカメラに写り、その頬には一筋の涙が……って映画かよ。映画だな。

歌詞は非常に静的な場面を描いてるのに、ボーカルの声も後ろで鳴ってる音も最高潮に高まっててアアア~~~静と動の対比~~~~~!!!!ってなる最高のCメロです。

そして息もつかせぬままラストサビ。お願いだから休ませてくれ。こっちはさっきからメンタルがボロボロなんだよ…

ラストサビ

ここでも昭仁氏のファルセットが冴え渡る。いや冴えてるって表現は適切じゃないな。不器用すぎる<僕>の感情を爪で削り取るような声なんだよ。

昭仁氏ならこなれた感じで歌うこともできただろうに、あえて荒削りなファルセットで歌ってくるから涙腺がダメになる。
この曲、作詞作曲ともに昭仁氏だから、自分の語りたい詞に奏でたいメロを乗せて、歌いたいように歌った曲なんだと思うんだよね。この歌い方を選んだのは昭仁氏自身なんだ…

ここで出てくる「サヨナラ。」は今度は<僕>のセリフですね。
涙を流したことでやっと自分からもサヨナラを告げることができるようになった。告げるべき相手はもう目の前にいないけど。

君の形 僕の形 いつかはその形を変えて
どこかで出会えるはずさ この世界はとても広く
素晴らしい愛があるはずだから

これが晴一作詞の曲だったらサヨナラを告げて終わりにするんだろうけど、ここに救いを入れて希望をもたせた終わりにするのが岡野昭仁

「はず」という言葉の使い方も、2番サビとは真逆です。
2番サビでは「愛とか恋と呼ぶはずなのに」と、「どうしてそうならなかったんだ」とも取れる嘆きに用いられていた言葉。

ラストサビでは「どこかで出会えるはずさ」「素晴らしい愛があるはずだから」と、どこまでも楽観的で希望的観測に満ちた言葉として用いられています。

形が変わることを肯定し、「どこかで出会えるはずさ」と軽やかにうそぶく。
出会える保証なんてどこにもないのにやたら明るい。別れを受け入れたことで逆に前向きになれたのか。

思わず「よかったねえ……」と呟いたくらいには救われてしまった。聴いていた私自身が。
そして心底「また出会えるといいねえ……」と思ってしまった。
わかり合えないことをわかり合って、それでも隣にいたいと思うならば。私は再会を願わずにはいられない。



……とポエムをキメたところで終わります。お願いだ聴いてくれ。
空腹時に食べるステラおばさんのクッキー並みにしみる曲です(例えが下手)